〜Intermission『The Crucifixion of Godess』
いろいろなことが、一度に起こり過ぎた。
5thチルドレン・渚カヲル――その実SEELEに送り込まれた第17使徒タブリス――の死、それに伴ってもろくも崩れ去ったNERVの使徒迎撃体勢。ただひとり搭乗可能だったEVAパイロット・3rdチルドレン碇シンジはその時、精神崩壊寸前の状態にあった。
はからずも、SEELEの意図は彼等の思惑を遥かに越えた高次元で結実した。そこに、誰も知らぬ『女神』の意図がはたらいていようとは、彼等の誰一人として考えてすらいなかったであろう。
しかし。
いにしえより悠久の時を眠り続けて来た『無貌の女神』は、知られざる自らの名の許に、宿命という蜘蛛の糸をはりめぐらせつつあったのだ。自らの形代の贄が必要であることを十分に承知の上で。
そして『審判の日』は、世界中の全ての者の上に訪れた。
富める者の上にも貧しき者の上にも、そして、SEELEとNERVと少年と少女の上にも。
『14才の福音<EVA> 』
EVA 14teen
〜The Judgement Day〜
EPISODE #3
レイの、全身麻痺はなかなか元に戻らなかった。
言葉すら失った彼女を、シンジは辛抱強く見守り、あくまでもいたわり続けた。一日中彼女に付き添っていることもあれば、また、ほんの10分ほど顔を出すだけということもある。しかし、基本的に毎日必ずレイの様子を見に来ている。
やさしく穏やかな表情を浮かべつつもげっそりとやつれ、どこか鬼気迫る風すら見えるシンジを、レイは内心恐れながらも頼りにしていた。
廃墟同然の病室に閉じ込められているレイにとって、わずかな心の慰めを与えてくれる存在は彼しかいない。
日に数度、点滴交換や清拭・床擦れをふせぐための寝返りを打たせに看護婦がきてくれるほかは、おおよそレイはひとりで放っておかれた。
しかし、病室で動けずにいるレイには判らないことだが、ボランティアを含む看護婦や医師は、混乱状態を収束させるために必死で立ち働いていたのだ。
診なければならない患者の数は余りにも多く、しかし医師も看護婦もそして必要な機具や機械や薬品までもが絶望的に足りなかった。
時には外傷の縫合に麻酔なしで挑まねばならないことがあり、また、消毒薬が足りないために傷口が汚染され、ひどい時には壊疽を起こした手足を切断するか否かという苦渋の選択を迫られることすらあった。
今にも崩れそうな廃墟寸前の建物の中、人間たちは必死で『生きるための』戦いを繰り広げていた。最低限のライフラインをかろうじて確保したその空間では、数限りない生と死が交錯している。
まさに、そこは荒廃した地獄以外の何物でもなかった。
目を離すことの出来ないより重症の患者たちを診るために、数の限られた彼等は神経を尖らせているので、比較的症状の安定したレイの世話が必要最小限にとどめられていたのも無理からぬことではある。
彼等は彼等なりの、そしてできうる限りの最善を尽くしていたのだから。
シンジは自分が外でいま何をしているのか、そして外界がどれだけ荒廃しているか、自分からは多くをレイに話そうとはしなかった。
ただ、レイの身体が一日も早く元に戻るように、ひたすら自分にできることをしていた。
動かない手足の先端の血行を良くするためにマッサージを施し、寝返りや身体を起こすのに手を貸し、衰えた筋肉に刺激を与えるために動かしてやり・・・その献身ぶりは、忙しさのあまり寝食も忘れる医師や看護婦たちの目にすら留まるほどだった。
「あの子、また来ているね」
「ええ、毎日来てますね……あの患者の身内なんでしょうか、私たちの手が回らないところを一生懸命やってくれているんです。あの子を御存じなんですか?」
「あ、ああ……」
「?」
「……3rdチルドレン、だ」
「えっ?!」
その医師は、かつてNERVの医療部に所属していた。しかし、サードインパクトの勃発とNERVの崩壊によって行き場を失い、医師としての使命と職分を果たすべくボランティアで働いていたのだ。
「――まちがいない、3rdチルドレンだった碇シンジ少年だよ。NERVの総司令の息子さんだ」
「そんな子が、なんでこんなところに?」
「それはわたしにも判らないが……」
彼等の視線の先で、黙々と働いていた華奢な少年の背中。
それは、見ようによってはひどく痛々しい姿だった。そしてまた、彼ひとりではとうてい償い切れぬ何かを必死で償おうとしているようでもあった。
「不憫なもんだ……あの総司令が父親では、あの子は今まできっと、ろくな目にあってはこなかっただろうよ」
「そうなんですか?」
「ああ。僕がいた、話題に疎い医療部でさえ、もっぱらの噂だったよ。あの患者――綾波レイも、何度も医療部に担ぎ込まれて来てね。あの頃はまるで幽霊みたいに見えたもんだ。生気ってもんがまるで感じられない、ってよく同僚と話したっけな……逆にまるっきり動けないのに、今の彼女の方が人間らしいと認識できるぐらいだよ」
「へぇ……そうだったんですか……」
少年は、ただ黙々と少女の世話を焼き続ける。
小さな声で彼は少女に話しかけ、少女は自分に許される動きの全てで少年の言葉に答える。
苦しげだった少女の表情がかすかに和むのを、微笑ましさと同時に哀れさを覚えつつ見守る――それぐらいしか、彼等にできることはなかった。しかしその感情は、どうしようもない歯痒さとなって、彼等の胸へと帰って来るのだった。
この『一連の出来事』の最終的結末がどうなったのか、正確なことを知っているのは多分、碇君だけ。
「――まだ、話せないんだ…それがどういう『意味』か、綾波だったら判るだろ」
私は、そっと目でうなずき返す。碇君の言葉が意味するもの――それは、機密。かつて、私自身の存在がそう呼ばれていたこともあった。だから判る。
「詳しいこと、何も話せなくて、ごめん……綾波に隠しごとしたいわけじゃないんだ、けど――とにかく、綾波が無事でよかった……」
すっかりやつれてしまった碇君のこわばった顔が、ほんの少しだけ優しくなった。
その瞬間に私がどれほど魅せられるか、いま、彼に伝える術はない。
感謝の気持ちさえ、言葉に置き換えることはできないのだから。
「綾波……」
だらりと椅子の横に降ろされた碇君の掌が、開いたり閉じたりしていた。これは、彼の心が葛藤している印。言うべきか、言わざるべきかを迷っている? だけど、何を?
「……アスカはね……」
セカンド。赤い髪の、勝ち気な子。全てにおいて、敗北を自分に許せなかった完璧主義者。そして、本当はとてもとても寂しがり屋だった彼女――しかし彼女を本当の意味で『知って』いたのかどうか、今の私には判らない。それがとても悔しい。
「アスカはね……一人で生きていくって、出ていっちゃったんだ……傷もまだちゃんと治ってないのに――」
「!」
「それも、なんにも持たないで……」
こんな時に、と、碇君は小さく呟いた。
「ついこないだまで――ずっと昏睡状態で眠ってたんだもの、体力なんかまるっきりなくなっちゃってるはずなのに。まだ混乱の名残りだってこんなに残ってるのに」
碇君の心配も判る気がしたけれど、彼女ならそうするだろうとぼんやりと思えた。私に残された数少ない『記憶』からの推測でしかないけれど、あの少女なら、きっとそうすることだろう、と。
――コンコン。
軽いノックの音がした。日中は碇君以外、ほとんど誰も訪ねて来ることのない私の病室では珍しいことだ。
「はい、どうぞ?」
碇君が、私の代わりに返事をしてくれる。
「――失礼」
様子を見に来てくれる看護婦の話ではほとんど廃墟に近いらしいこの建物の、がたついたドアを開けて入って来たのは、私の主治医の先生だった。
「やあ、レイちゃん。具合はどう? ところで君は、この子の身内?」
「僕、は……彼女の身内、じゃなくて、単なる友達なんです――けど、僕は彼女のそばにいたいんです。いけませんか?」
先生は、やっぱり碇君と同じようにひどく疲れたような顔をしていたけれど、碇君のその言葉に微笑をうかべたようだった。
じゃあ、君はやっぱりこの子の身内なんだよ、と先生は言った。その言葉には、何か別な意味もあるような気がしたけれど、私にはよく判らなかった。
「レイちゃん――悪いけど、ちょっとお友達を借りるよ? いやなに、すぐ返してあげるからね」
私が先生に向かって目でうなずくと、碇君もベッドの脇の椅子から立ち上がった。
「綾波、すぐ戻ってくるからね」
そして2人は、がたぴし言うドアを開けて出ていった。碇君に先生が何を話すのか気になるけれど、それは気にしてもしょうがないことだ。
――もし私に伝えるべきことがあるならば、ちゃんと碇君は言葉にして伝えてくれるだろうと思っていたから。
それは、すでに私の中で『信仰』に近いものにさえなっていた。神様を信じたことのない私が『信仰』を論ずるのは、ほんとはおかしいのかも知れないけれど。
「――さて、」
破れたガラスから風の吹き込む廊下をしばらく歩いたところで、医師は、自分の後ろに従って来た少年を振り返った。
少年の身体は、医師の目にしてみればやはりひどく華奢に見えた。綾波レイと同い年、14歳のはずだ――まだNERVにいた頃に幾度かすれ違った程度だが、この混乱をくぐり抜ける過程でやつれたために、もともと細い身体がさらに痩せてしまっていた。
「碇シンジ君、だね。NERVで、3rdチルドレンと呼ばれていた……違うかい?」
「!!……どうして、僕の名前を?」
あまり知られたくない素性を言い当てられて狼狽した少年に、医師は生真面目な顔で言い足した。
「私もNERVにいたからさ。君とも医療部で何度か会っているはずだよ……君も、レイちゃんもよく運び込まれて来ていたからね」
「そうなんですか……すみません、僕、よく覚えていません……」
「無理もないな。君と会うのはだいたい集中治療室の中で、君は意識不明なことが多かったからね」
「……そうかも知れません」
うつむいてしまった少年に、医師はさらに言葉を続けた。
「で、だ……レイちゃん――綾波レイさんのことなんだけどね」
途端に少年が、がばっと顔を上げた。
「綾波は、どうなんですか? 綾波の身体はまた動くようになるんですか? またしゃべれるようになりますか、どうなんですか先生!」
息せき切って、少年が畳みかけるように問う。
「……まずはっきり結論から言わせてもらうよ。私たちにも、彼女の症状は、実はよく判らないんだ。つまり、治療法があるかどうかも判らないし、治るかどうかも判らない」
医師の絶望的な言葉に打たれたように、子供らしい丸みを失った分精悍さを増したようにも見える少年のやつれた顔から、表情が消えていった。次の瞬間、少年の双眸に憑かれたような光が宿った。
「治るんでしょう?! ねえ先生、綾波は、綾波の身体は元に戻るんでしょう?! 答えてよ、先生っ!!」
血と埃にまみれ、薄鼠色になってしまっている医師の白衣の胸を鷲掴みにして、少年が吼えた。
「――身体的、つまり身体の機能には、何の問題もないことが判っているんだが……」
少年の剣幕に内心ややたじろぎつつ、医師は静かに答えた。いっそ現在の事実、飾りようもない現実をありのままに伝えた方がよいと瞬間的に判断した結果だった。
「そう……なんです、か……」
少年の拳から、力が抜けた。ついでがくりとその場にへたり込んでしまった少年の身体を、医師は両腕で支えて起こしてやった。
「じゃあ、何故……なんで綾波だけがあんな目に……」
ようやく聞こえるかどうかの声で、少年はつぶやいた。
「君は知らないかも知れないけどね、」
医師は少年をしっかりと立たせてやった。そして、言葉を続ける。
「ああいう症状を呈しているのは彼女だけじゃないんだ」
「え?」
少年が、顔を上げた。
「私たちが『帰還』と呼んでいる現象がある。あの赤い海から、人間が戻って来ているんだよ」
「え……?」
意外そうな、少年の声だった。どうやら、知らなかったらしい。
「あの海の波打ち際に、数人単位、時には数十人単位で人間が打ち上げられて来るのさ。多分私も君も、やっぱりそうやって帰って来たんだろうと思う。ただ、それがちょっと他の人より早くて、ちょっと他の人よりも幸運に恵まれたというだけで」
医師は、かぶりを振った。
「あの海から戻って来た人の中には、身体の一部がまるでもぎ取られたかのような損傷があったり、重大な記憶障害をきたしてしまっているケースが見受けられるんだ。そしてその数は、決して少なくはない」
自分の無力さを恥じるように、医師の声が小さくなった。
「……いずれも、原因は良く判っていなくてね。あの『事件』からまだ日が浅いからなんとも言えないが、記憶障害を起こした患者の記憶が戻ったという話は、今の所ない」
少年は、医師の目に真実を見た。飾らずに、ごまかさずに、まだ少年の彼を対等の相手としてありのままの真実を語ってくれていることが理解できた。
「しかし、希望は決してないわけじゃないんだ。彼女――レイちゃんの場合、身体的機能に何の問題もないことが判っているんだからね。何ともない、っていうことは、元に戻る可能性もゼロじゃないってことになる。これは希望的観測に過ぎないが、絶望よりはずっといい。そのことは、君が一番よく判っているんじゃないか?」
希望。
少年がその言葉を聞いたのは、そしてその言葉を噛みしめたのはずいぶん久しぶりのような気がした。前にその言葉を口にしたのは、一体いつ、誰だっただろう?
ふと――ズボンのポケットの中に、冷たく硬い金属の塊があることに少年は気付いた。手を突っ込んでみると、角張ったその『かたち』が指先に感じられた。
『精一杯生きて、それから死になさい』
そうだ……希望を捨てたら、終わりなんだ。
戻って来てくれた綾波のために、彼女を引き戻してしまった僕のために、そして、僕のためにたったひとつのいのちを投げ出してくれた人のために。
少年は、ポケットの中の金属の塊をぎゅっと握りしめた。ひんやりとした金属に彼の掌の熱が伝わり、ほのかに暖まるのが判る。
「先生……綾波は、治らない訳じゃ、ないんですよね」
食いしばった歯の間から、ようよう、言葉が洩れた。
「もちろんだよ。私たちも精一杯の努力はする。だから君も、君にできることをやって欲しい。君だけができることがあるはずだから――レイちゃんのために。まず君が信じることが必要なんだ、彼女は必ず治る、と」
少年のやつれた顔に、はじめて笑顔に似た表情が宿った。少年もまた、医師の疲れ果てた顔に希望を見い出していた。
「先生……僕、先生の名前をまだ聞いてませんでした。え、と……林先生、で、いいんですか?」
医師の汚れた白衣の胸許に、身分を示すカードがぶら下がっていた。ひどく汚れたそのカードを良く見ると、かろうじて読める『ハヤシ』という文字とNERVの紅いマークが、かすかに見て取れた。
「ああ。あいにく身分を保証してくれるものがこれしかなくなってしまってね。改めてよろしく、碇シンジ君」
「林先生、綾波を、よろしくお願いします」
少年は深々と頭を下げた。
「私たちにできることは、実際のところもうほとんどないんだよ。あとは多分……君次第だと思うんだ。彼女の『治りたい』という気持ちこそが、おそらく回復への第一歩になるだろう。レイちゃんの思いを、支えてあげて欲しい」
医師は、少年の肩に掌を置いた。その暖かな感触を、少年は心地よいと思った。
「僕は僕にできることを……がんばろうと思います」
「頼むよ。お互いに、がんばろう」
そして少年と医師は、堅い握手を交わした。顔を上げ、胸を張って少女の元へ戻ってゆく少年の背中は、ひと回り逞しくなったように見えた。医師もまた、彼を待つ者たちの所へ戻っていった。片時も目を離してはいられない、彼の手を待つ重症患者はまだ多いのだった。
……ミサトさん……
僕、もう希望を捨てたりしないことにしたよ。
……だから僕を……見ていてね……
To be Continued....to #4