Written by 柏崎夢乃
シンジが、重い身体をひきずるようにして帰途についたその頃。
「・・・ふぅん・・・やっぱり、ねぇ・・・だから無駄だって言ったんだよ、ボクは」
SEELEの本部、その奥の院。ごくごく限られた者しか入室を許されない『救世主』の間。恐縮する部下を前に、『救世主』は優雅な猫科を連想させる微笑を浮かべている。
その微笑が意味するものをよく知る部下は、服の下に絞るほどの汗をかいていた。彼の独断で決行した『カイン襲撃計画』の失敗を、己の主に報告しているところであった。
主は、類い稀なる美貌の持ち主だった。しかし、その美しさとは裏腹な酷薄さを内に秘めている。そして、やはり猫科の気紛れをも併せ持っていた。
酷薄さと気紛れさが合致したその瞬間――主の、天の劫火のごとき怒りが炸裂する。その逆鱗に触れた者で、およそ無事にこの部屋を出た者はいない。
一番の側近であると自他共に認める彼は、何度となくその劫火の炸裂する瞬間を見て来た。
『・・・ボクはね、無能な部下が何よりキライなんだよ・・・』
紅く輝く、灼熱の劫火。しかしそれは、戦慄するほどの恐怖であると同時に心を捉えて離さない『美』そのものでもあった。その怒りの恐ろしさと『ヒトならぬモノ』とも言うべき美貌――彼の主は、人間の上に君臨するに足る『存在』だった。
ある日、彗星のように裏社会に現れた『救世主』は、中核を失って迷走状態にあったSEELEの組織に食い込み、あっという間に新たなる『主』になりおおせた。
その裏には『救世主』に心酔し、支持した中堅幹部達の力があった。仕えるべき主を失って困惑していた彼等は、目の前に突如現れた新たなるカリスマにいとも容易く膝を折った。
もちろんそれには、中堅らしい打算と思惑が分かちがたく絡み付いてはいたのだが・・・。
誰言うともなく、自然発生的におこった『救世主(メサイア)』という尊称。それは彼の主の持つ、何者をも畏怖させずにはおかない恐るべき力と臓腑を鷲掴みにしてしまう美しさを、もっとも忌憚なく表現する言葉と言えた。
「・・・まあ、いいさ。今回のキミの失態は不問にしておくことにするよ・・・キミの能力を失うのは、今のボクにとって決して得策じゃないしね・・・」
「は・・・申し訳――」
言いかけた言葉を、紅い火花を放つ視線が遮った。
「失った信頼は、ただ実績でのみ取り返すことができる・・・そう言ったのは、確かキミだったはずだよ?」
にんまりと微笑む『救世主』――心底楽しそうな、そして無邪気なその双眸。清らかなあどけなささえ漂わせながら、その手はいとも容易く彼を引き裂いてのけるだろう。
身体中の水分が全て流れ出るかと思うほどの汗をかきつつ、彼は『救世主』の間を退出したのだった。
「――そうか。いつものように、頼む」
内線電話の受話器を戻しつつ、冬月もまた、深いため息をついた。
その報告は、何よりも老いた冬月の心を苛むものだった。
「いつまでこんなことを続ければいいのだ、我々は――」
その苦悩に満ちた独白は執務室の闇に吸い込まれ、彼以外の誰の耳にも届くことはなかった。
辺りはもう、すっかり暗くなっていた。
西にうっすらと夕映えが消え残る空の東側には、12月の夜空を彩る星々がまたたき始めている。
リゲルとベテルギウス、三つ子、カストルとポルックス、カペラ、プロキオン、そしてひときわ輝くシリウス。プラチナ色の月光とともに、それは、この国に季節があった旧世紀と何ら変わることのない星空だった。
シンジの薄いシャツを、涼しい風がはためかせてゆく。近頃は、この時期になると夜がかなり冷え込むようになった。
永遠に続くと思われた夏は、ゆるやかに終わりを告げようとしているようだった。
『寒い』という感覚を日常的に体感する日々など、シンジたちの世代はおよそ考えたこともなかった。
寒さを感じるのはあくまでも人工的な空間内でのことであり、一歩でも屋外へ出ればうんざりするような暑さがまつわりつく――それが当たり前だと思っていた。
しかし、よくよく注意深くしていれば、止まっていた季節が再び動き出そうとしていることは体感できる。
彼らの知る限り、今まで減ったことのなさそうだった大気中のねっとりした温気と湿気が、月日の移り変わりとともに微妙な増減をし始めているからだ。
旧世紀に暦の上で「秋」「冬」と呼ばれていた頃になると空気中の湿気は減り、夜ともなれば気温はかなり下がるようになった。寒いという慣れない感覚が皮膚に呼び起こされ、物珍しさにわざと薄着で外を歩いて風邪をひく者もいた。
「・・・さむ」
ぶるっと身震いして、シンジは空を見上げた。
満天の星空――星々の名は知らないけれど、しばし彼は足を止めて星空に見入った。
「きれいだな」
思わずつぶやく。きらきらと輝く星々は、哀しみに荒れたシンジの心に言葉ではない何かを語りかけているようだった。
「僕は・・・」
言葉にはならなかった。心の奥深く沈み込んだ思いは、容易にはかたちにならない。
いつかも見た、こんな星空。あれは、そう、初めて他人と心を通わせた日。何も持たなかったシンジが、初めて誰かと心をつなぎたいと思った日。
絆の糸を、結びたいと願った日。
「・・・綾波・・・」
いつの間にか唇に馴染んだ、呼び慣れた名前。彼を惹きつけてやまない神秘的な紅い瞳。
華奢な身体と、信じられないほど強靱な意志。自らを捨てて惜しまないほど、彼との絆を大切に思ってくれた『彼女』・・・。
「いかりくん」
シンジが驚いて振り向くと、そこに月の女神が立っていた。
「あやなみ」
にこ、とレイは小さく微笑んだ。少し伸びた髪が、さらさらと風に揺れている。
「遅いから、迎えに来たの」
しごくあっさりと、彼女は言った。昔から気配をあまり感じさせないレイではあったが、今のシンジの虚をつくことのできる数少ない人間のひとりだろう。
「おどかさないでよ、ね」
苦笑する彼をよそに、レイはすいと近付いた。そしてシンジの手をとり、自分の華奢な指をシンジのそれにからめる。
「実験?」
とん、とシンジの肩に自分のおでこをぶつけて、レイは聞いた。彼女にも覚えのある薬品のにおいがかすかに感じられたのだ。
「・・・うん。ごめんね、連絡しなくって」
「いいの。イレギュラーの実験、わたしもよく・・・あったから」
聞けばシンジを苦しめる、それがレイにはよく判っている。だから、不用意な自分の質問に自分で答えを出して打ち消した。
年相応の逞しさを見せ始めたシンジの腕につかまりながら、レイはそっとシンジの横顔と、その向こうの星空をあおぎ見る。
「あの日も、こんな星が出てたわ」
「・・・そうだね。僕も、思い出してたんだ。あの日のこと」
「同じこと考えてたのね」
「うん」
涼し過ぎる風に、互いの体温が心地よかった。
「これは・・・?」
薄暗い部屋の中で、そこだけがかすかな光を放っている――と見えたのは、蒼白く輝く月が描かれていたせい。
シンジが見せられたのは、夜の海の絵だった。
「あの日の、月によく似ていたから・・・どうしても欲しくて・・・冬月司令にお願いして、買ってしまったの」
レイが部屋の明かりをつけなかった訳が判った。カーテンを開け放した窓から入る月の光と街灯の明かりが、銀色の月をいただいた夜の海の絵をいっそう神秘的に見せている。
「碇君・・・これは、あなたへの、贈り物」
「え?」
描かれた銀の月を背に、レイが微笑んだ。それは、シンジを魅了してやまない、幾年経っても、きっと変わらないだろう微笑。
「だって」
「あなたが全てを捨てて願ってくれたから、わたしは今こうしてここにいるわ・・・だけど、わたしはあなたのために何もしてあげられない」
シンジは困惑したような、また照れくさそうな笑みを浮かべた。しかし、すぐに顔を伏せ、その表情を隠してしまう。
「だって、綾波・・・僕は、僕のために――そう、きみのためじゃなく、どうしてもきみにもう一度会いたいっていう僕自身のためにきみが帰ってくることを望んだんだよ。消えることを望んでいたきみを、この、どうしようもない世界へもう一度引き戻してしまったんだ。
・・・だから・・・」
「だから?」
レイは穏やかに聞き返した。続きを促しているようであり、また、言わずとも判っていると言いたげでもある。
――いっしょに、この世界で生きていて欲しい――
シンジの掌に、魔法のように現れた小さな箱。かわいらしく飾られた紅いリボンを解き、虹色の包装紙をそっとはずすと、黒いビロード張りのケース。
「あけてみて」
シンジの瞳は、すがるような、そしてレイの反応を心待ちにするような色で染まっていた。
箱を開ける――と、紅い双眸が、驚きで真ん丸になった。
「・・・きれい・・・」
レイの白い指先が、ペンダントをつまみ上げる。月の光のしずくを集めて凝らせたような微妙なきらめきを宿す宝石が、プラチナに抱かれて揺れていた。
「これは――?」
シンジは、掛け値なしにうれしそうな笑顔になった。それを見たレイの心が、ほんわりと暖かくなる。
「綾波と一緒だよ。あの日の月の光にあんまり似ていたから、どうしても綾波にこれを贈りたくて・・・司令に無理を言って買っちゃったんだ。おあいこだね、僕たち」
「いかりくん・・・」
「綾波、『クリスマス』って知ってる?」
悪戯っぽい瞳で、シンジが聞いた。いきなり思いもつかぬ方向へ飛んでしまった話題に、レイがきょとんとする。
「・・・知らない」
「今日、12月24日はクリスマス・イヴ――そして明日はクリスマスっていう旧世紀の祝日だったんだよ。旧世紀の人たちは、今日から明日にかけてそれぞれ大事な人たちのために、互いに贈り物を交換するしきたりだったんだって」
「そうだったの」
「それ、つけてあげるよ」
シンジが、レイの指からそっとペンダントを取り上げた。後ろに回りこみ、レイの華奢な首筋に銀の鎖を留めつける。
「・・・似合うかしら」
ほんのりと頬を上気させて、レイがシンジを振り仰ぐ。きれいなラインを描いた鎖骨の中心に、月のしずくが輝いていた。
「うん、とっても」
シンジが思ったとおり、儚げな光を宿すその宝石はレイの印象を崩すことなくしっくりと調和し、さりげなく完成された美しさを見せている。
レイは、そっと指先で宝石に触れてみた。丸くカボッション・カットを施された宝石は、なめらかに優しい感触を伝えてくる。
こんな高価な贈り物をもらったのは初めてのことだった。自分があの絵をシンジに贈ろうと考えていた時、シンジもこのペンダントを見て同じことを考えてくれていた・・・それが、レイにとってはさらにうれしかった。
「・・・ありがとう、いかりくん・・・」
感謝の言葉。そう、初めてこの言葉を口にしたのも、彼に対してだった。
『笑えばいいと思うよ』――そう言ってくれたヒト。初めてこんな自分のために泣いてくれたヒト。こんな自分を『好き』だと言ってくれたヒト。
そして、初めて『好き』になったヒト。
胸が震えてこわれそうなほどの幸福感と、ふとよぎる一抹の不安。
『このヒトがもしいなくなってしまったら、わたしはいったいどうすればいいのだろう?』
紅い瞳が揺れて・・・ひとしずくの月が、こぼれて落ちた。