生年 | 天保10年11月9日 |
出身地 | 伊豆加茂郡加納村 |
役職 | 伍長 |
略歴 | 加納伴平の長男として生まれる。 大島流槍術を使った。江戸深川に居住し、伊東甲子太郎と交流し、また篠原泰之進とも交流があり、ともに横浜外人居留地警備の任務についた。 伊東に篠原や同志を紹介し、元治元年10月の近藤勇の隊士募集に応じて上洛。慶應3年3月に伊東らとともに御陵衛士として分離。 慶應3年の油小路の変では同志とともに急行。待ち伏せていた新撰組と戦闘になるが、脱出。 12月には近藤襲撃事件に参加。慶應4年の鳥羽伏見の戦いが始ると、綾小路俊実にしたがって挙兵し、相楽総三らと赤報隊を結成する。しかし独走する相楽と別れて帰京し、投獄されるもすぐに赦免。 その後は薩摩藩に属して戦い、慶應4年4月には投降してきた「大久保大和」を近藤勇だと見破った。また、仕官を願ってきた大石鍬次郎を捕らえたとも。維新後は開拓使などに就く。 |
事件 | 油小路の変、鳥羽伏見の戦い |
最期 | 明治35年10月25日に死亡。享年64歳。 |
墓所 | 青山霊園 |
一言メモ | 加納の墓碑は立派ですね(^^)この墓碑の裏面に彼の一生が漢文で彫られているんです。やはりこういう「一生を彫った文章」は漢文でないと趣きがないですね。 |
青山霊園・・・東京都港区南青山2−32 |
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青山霊園の加納鷲雄の墓碑。 同じ青山霊園に同志の 篠原の墓碑もあります。 マムシには注意してね! |