Written by 柏崎夢乃
何だかとても不思議な気がする。あのむちゃくちゃな状況を生き抜いて、今こうしてここに生きている。
ジャジメント・デイを乗り越えた僕の肩にのしかかる重荷はあの頃より格段に重いけれど、生きているという確かな手ごたえが嬉しい。
僕も綾波も、お互いの中に生きる意味を見い出していなければ、今ここにはいない。僕はよく覚えていないのだけど、綾波は
『・・・碇君があたしを探しに来てくれたの・・・始源の海に融けて、全ての人から拒まれて、消滅しようとしていたあたしを抱きしめてくれたの・・・ここにいてもいいと、ここにいてほしいと、僕のそばにいてほしいと言ってくれたの・・・』
そう言うんだ。そして僕は、廃虚の中で綾波を見つけた。その時、どれほど僕が嬉しかったか・・・。
やっぱり今日の僕はどこか暴走気味らしい。結局、僕のポケットには2つの包みが入っている。あの蒼月輝石のペンダントと、『Liebe』と彫り込んだペアの指輪。
いざ買う段になってから、僕は綾波の指輪のサイズをきちんと知らなかったことに気づいた。僕自身のサイズは14号――店員によると、男性にしてはずいぶん細いらしいけど。
綾波の手は僕の手ががっしりして見えるほど華奢だから、とりあえず店員の助言で、最も平均的なサイズよりひとまわり細い9号にした。
『もしサイズが合わなければお取り替えしますから』
そんな声に送られて僕は店を出た。
『お忙しいところすみません、冬月司令』
「――おや、レイじゃないか。どうしたね?」
『限度額の解除をお願いしたいのですが』
そこまで聞いて、冬月ははて、と首をかしげた。先刻シンジから似たような電話があったばかりだったのだ。
――今日は何かあったのだろうか?
机の隅のデジタルカウンターを確認する。
<16:43 12/24>
冬月はひとりで微笑んだ。
――そうか、クリスマス・イブ・・・たまたまかも知れんが、サンタになってやるとするか。
「10分待ちなさい。すぐに解除させる」
『・・・はい』
冬月は限度額解除の指示のために内線電話をかけながら、ひとりでそっと微笑んだ。
どうしてもあなたに贈りたいものがあるの・・・。さっき限度額を解除してくれるように冬月司令にお願いしたから、もうすぐ・・・。
―― P i r r r r r r r r・・・・・・――
「――はい?」
『冬月だが、いま解除させた。もう決済しても大丈夫だ』
「・・・わかりました」
偶然見つけた、青色の絵。蒼、青、碧・・・とても美しい。その絵の真ん中にぽっかりと浮かぶ月の光もほのかにあおざめて、あの日見た月を思わせる・・・初めて私が微笑むことを知ったあの日の月を。
「今日中に配送して下さい」
「承りました」
「お願いします」
この絵をどうしてもあなたに見せたい。あなたと一緒にこの絵を見たい。あの夜――月がこぼれるほど蒼く輝いて、星が降りそそいでいたあの夜を思わせるから・・・。
なんだか、羽根が生えたような気分だ。夢でも見てるような・・・やっぱり今日の僕はどこか変かも知れない。足許が定まらないというか、嬉しくて楽しくて、
「ぃやっほぉっ!!!」
と、叫んで走り出してしまいたいような。僕のポケットの中の小さな2つの包みがそうさせるんだろうか。
――と。僕の内部で、ものすごい警戒警報が鳴り響いた。
「っ!!」
とっさに身をかわしたシンジの頭のすぐわきを、何かが掠めた。風にあおられた髪の毛が数本持っていかれたらしいが、そのまま、彼は軽いステップで踊るように路上を駆け抜ける。
『・・・こんな時に・・・』
舌打ち。せっかく楽しい気分に浸っていたのに邪魔されたという子供っぽいいら立ちと、3年の間に鍛え上げられた『戦士』の、そして本質的な『奴等』への怒りが瞬間的にシンジの心と肉体を変質させる。
「・・・何で・・・」
彼は走りながら虚しさを噛みしめる。彼を追って、消音器を装着した拳銃からまた数発の銃弾が打ち込まれるが、ひとつとして命中しない。華奢で細身なシンジの影は、街外れの森林公園を目指して疾走していた。
「追え!」
襲撃者はよく訓練された一隊だった。いわゆる黒服の集団ではなく、一見サラリーマン風の、しかし目つきの鋭い男達。彼等は最も効率のよい数ルートに別れてシンジが目指すであろう森林公園を目指して、やはり素早く走り去った。
――はあぁ、っ・・・
シンジは軽く呼吸を整えた。そして、背後にわだかまる一番大きな殺気の塊に向き直る。
「・・・追いかけっこは終わりだよ」
彼は完全に包囲されてなおかつ拳銃を突き付けられている今の状態に、おびえるどころか動じる風もない。
「――第三適格者・碇シンジだな?」
「そうだよ・・・でも、今はもうそんな肩書きに意味がないことは、あなたたちも知ってると思ってたけど・・・?」
男達の目の前にいる華奢な――まだ少年といってもさしつかえなさそうな幼さを残した青年は、うつむいたまま皮肉っぽい微笑を口許に張り付けていた。
その黒いはずの瞳は鬼火のような蒼い燐光を宿し、上目遣いの微笑は、見ている全ての人間の根源的な恐怖をあおった。
それは、異形のモノに触れた時のような居心地の悪さと、腰がくだけて逃げ出したくなるような気味悪さを合わせ持った『触れてならないモノ』の微笑だった。
『・・・なんだ、こいつは・・・??????』
百戦錬磨のはずの彼等が、気押されて引金を引くこともできずに、ただ脂汗を流して立ち尽くしている。事前に行われた調査では、完璧だと思われたあの最初の狙撃を避けたりはできないはずだった。
「今の僕が・・・違う名前で呼ばれてること、知らなかったの?」
「な、なんだと?!」
「今の僕は、第三適格者じゃない・・・僕は『カイン』・・・」
「――『カイン』?!」
カイン。聖書に出て来る、ADAMとEVAの息子。神に愛された弟アベルを憎み、最初の殺人を犯したという呪われた名前――その罪を罰するため、神はカインに印をつけ、荒野に追放したのだ。
『何者も神の印を持つものを傷つけてはならない』という、ある意味最も残酷な刑罰を背負ったカインは、いずこへともなく姿を消したという。
そして『聖書』を熟知している彼等の脳裏には、その聖書の逸話とともにある噂が浮かんでいた。
『カイン』
彼等の組織が追う、もっとも正体不明の敵。
彼等のターゲットのうち、第一適格者・綾波レイは拉致、第三適格者・碇シンジ及び現NEO−NERV総司令冬月コウゾウは抹殺――綾波レイを拉致するためにまず邪魔な碇シンジを射殺し、綾波レイを手中におさめて後にNEO−NERVを壊滅に追い込むべく、そのトップに座る冬月を殺す。
それとともに、彼等に課せられた任務が『カイン』の正体を暴くことだった。トップシークレットである『カイン』の正体は、総司令しか知らないと言われていた。
それゆえ、冬月を殺す際には『カイン』の正体について口を割らせてからにせよとも命じられていたのだ。
「お・・・お前が『カイン』だと・・・?!」
男達が動揺したのも無理はない。今まで彼等がNEO−NERVに送り込んだ全ての刺客が『カイン』によって返り討ちにされていたのだ。
『カイン』は決して相手を殺さないといわれていたが、手足をもがれた上に人格を崩壊させられたもの、記憶を消され、赤子同然に退行させられたもの・・・それによって使い物にならなくなった組織員の損害はかなりの数になる。
彼等の胸に冷たいものがやどったとしても、誰もそれをとがめることはできなかったであろう。
「・・・いくよ」
氷のような声がした。