――Agnus Dei, qui tollis peccata mundi :
                  miserere nobis.

        Agnus Dei, Qui tollis peccata mundi :
                       miserere nobis.

             Agnus Dei, qui tollis peccata mundi :
                            dona nobis pacem.――















「星降る夜に眠らせて・・・」

―14歳の福音<EVA>外伝―


Written by 柏崎夢乃
















 ごう、と風が吹き抜けた。

「・・・こんな・・・」

 シンジは、鮮血にまみれた自分の両手を見つめ、ぐっと握りしめる。足許に倒れ伏す亡骸は、どの顔も驚愕と恐怖に彩られたままだ。

「――それでも、僕は――」

 先刻まで彼の双鉾を彩っていた狂熱はすでに去っていた。蒼い燐光は消え失せ、代わりにたたえられているのは一杯の涙。

「僕は・・・僕、は・・・・うぐ、げぇっ」

 シンジの身体が支えを失ったようにふらりとよろめき、膝をつく。激しい嘔吐の発作に襲われて、彼は地面に胃の中身をぶちまけた。

 しゃくりあげ、肩を震わせながらシンジは吐き続ける。もはや吐くものが何も残っていないというのに発作は止まらず、耐え切れなくなった喉の粘膜が裂けて、胃液に血が混じる。

 あふれた涙が頬を汚し、ぽろぽろとこぼれ落ちる。苦痛に歪む彼の顔は、先刻の戦士の顔とはまるで別人のようだった。

「・・・それでも・・・そ、・・・で・・・・も・・・・・」

 鮮血混じりの胃液を吐きながら、シンジは声もなく慟哭する。

 こうなることは――茨の道を歩くことになるのは、判り過ぎるほど判っていた。彼が『カイン』としての貌を持つと決めた時、周囲すべての大人たちが反対したことが昨日のように思い起こされる。

 優しすぎるシンジの性格を思えば、大人たちの危惧はまさに的をえていると言わざるを得ない。人を傷つけるたびに、自分自身がより大きく傷ついてしまう彼が『戦士』になる――それは確かに無謀以外の何ものでもない。

 しかし。

 それでも彼は『戦士』になること=『カイン』としての貌を持つことを選んだ。





『・・・僕は、綾波を守らないといけないんです。強くなって・・・綾波を、今度こそちゃんと守りたいんです。もう綾波を犠牲になんかしたくないから――そのためなら、僕は――』





 シンジの決意を聞いた冬月は、もう何も言わなかった。シンジが、本来はその父と同じく強固な意志の持ち主であることをよく承知していたからだ。

 一見気弱で無口、優柔不断なその態度とは裏腹に、シンジの内面には鉄の意志が眠っている。その片鱗は、サードインパクト=ジャジメント・デイ以前より垣間見えていたのではあるけれど。

 ジャジメント・デイ=地獄の死線を越えたシンジは、それまでの彼とは明らかに変化していた。

 当然と言えば当然だろう。

 人間が人間のかたちを捨て、世界は崩壊し、地上には始源の海がたゆたい――リリスの欠片と碇ユイの遺伝子から生み出された『綾波レイ』を依代とした『女神』が、黒の月を抱いて舞い上がった『裁きの日』。

 それを望んだ一部の人間と、何も知らぬまま巻き込まれ、始源の海に消えていった大多数の人間と。そしてそのどちらでもなかった彼。

『女神』の意志をただひとり動かしえた者=碇シンジという少年が望んだのは『綾波レイ』にもう一度めぐりあうことだった。

 人の生死をあやつり超越しうる『女神』ではなく、あれほどまでに恋いこがれた『母親』でもなく、彼が望んだのは『彼女』だった。

 孤独を胸に抱え、忌わしい宿命に支配されていた『綾波レイ』。

 自分は『人間でないもの』だから、と自らの心を固く閉じ込め、紅い瞳を遠くにさまよわせていたひとりの少女に、彼はもう一度逢いたいと心から願ったのだ。

 その願いは叶えられ――シンジの前に、少女は戻って来た。ほとんどの記憶を失い、身体の自由もままならない状態ではあったけれど、とにかく、彼女は戻って来た。

 彼の願いに応えた『女神』のために、彼は自らの意志で茨の道を歩むことを選んだ。

 それが彼女=『綾波レイ』を地上に還した『女神』との約束だった。だから彼は、強くならなければならない。

 何があっても、たとえ世界中を敵にまわしたとしても――『女神』が彼に託した、人間への希望の象徴でもある、いとおしい少女を守り抜くと誓ったのだから。















 激しかった嘔吐の発作がようやく収まってから、シンジは水飲み場で血まみれの手を洗い、胃液の味の残る口をすすいだ。

 頭から水をかぶる。

「――っ!」

 その冷たさに、朦朧としていた意識が一気に覚醒する。

 ぶるぶるっと髪から雫を振り落とし、ポケットからハンカチを取り出す。

「・・・後始末、頼まなくちゃ・・・・・」

 ちらりと後ろに横たわるいくつもの屍体を横目で見やり、顔と手をぬぐう。髪の水滴が鬱陶しくて、指先で跳ね上げる。

 携帯(一見どこにでもある安物、その実はNEO−NERV製・シンジ専用特別仕様)を別のポケットから引っぱりだし、押し慣れた特殊コールナンバーをプッシュする。

「・・・森林公園、エリアE・・・お願いします」

『了解』

 ――ぴっ。

 後は、できる限りすみやかに立ち去らねばならない。いくらMAGIの支援によって『戦闘区域』に立ち入りを制限しようと、どこで誰が見ているかは判らないからだ。

 もう一度、彼は累々と横たわる屍体に目をやった。

「・・・許して、とは言えないけど・・・」

 目を伏せ、残る思いを振り切るようにきびすを返してシンジは走り去った。















 ジャジメント・デイでめちゃくちゃに破壊された第三新東京市内には、復興から忘れ去られて廃虚と化したビルがまだいくつも残っている。

 そのひとつの裏手の路地に、人目をさけるようにしてシンジはやってきた。

 さっと周囲を確認すると、シンジはビルの通用口に設置されたロック装置に暗証ナンバーを素早く入力した。しかしその装置はなぜか廃ビルには不釣り合いな最新式のもので、それゆえに周囲からひどく浮き上がって見える。

 カシュン、と小さな作動音とともに掌紋確認パネルがロック装置の下部に飛び出し、彼は躊躇うことなくパネルに右手を押し当てる。

『掌紋確認』

 電子音声がささやき、パネルが引っ込むと同時に通用口のドアが音もなく開く。シンジの姿がそのドアの向こうの暗闇に消えると同時に、再びドアは閉ざされた。

 そして、何ごともなかったかのように路地は再び静まり返った。















 暗い廊下を、シンジは音もなく進んでいく。特に足許に気を配っているわけではないし、ここはそもそもそんな気配りも必要ない場所だ。それでも、周囲の暗さが否応なく彼をそういう歩き方にさせてしまう。

 そのことだけでも、シンジの過ごして来た3年間が如何に苛酷であったかが推測される。

 シンジは入り組んだ廊下を迷うことなく進んでいき、目指すドアの前にたどり着いた。そのドアには、他のドアには取り付けられていないロック装置が取り付けられている。

 シンジは慣れた様子で暗証ナンバーを打ち込んだ。すると今度は掌紋パネルではなく、虹彩スキャン装置が現れる。のぞき込んだ彼の瞳を装置が読み込み、情報を照合する。

『虹彩パターン確認・入室を許可』

 無機質な電子音声が告げる――ひと呼吸ほどの間をおいてドアが開くと同時にすさまじい勢いでエアカーテンが吹き付け、シンジを迎え入れる。そこは、およそ廃虚の中とは思えないようなありさまだった。

 太さも色も様々なケーブルがうねりのたくって床を埋めつくし、部屋のすみのデスクの上にはネットワーク端末が置かれ、彼が部屋に入ったと同時に点灯したディスプレイがまたたいている。

 しかしここは、この手の部屋にありがちな埃っぽさとは無縁だった。むしろクリーンルームと呼んでもさしつかえないかもしれない。エアコンが一定時間おきに室内の空気を強制的に循環させ、エアダクトがフル稼動で室内の空気とともに埃を排出してしまうのだ。

 そして、この部屋の調度でもっとも異様なもの。密閉型の巨大なカプセル――それは、かつてエヴァンゲリオンに搭乗するために使われたエントリープラグに酷似していた。

「・・・・・・」

 深いため息をつきながら、シンジはデスクに歩み寄ると端末を操作した。断続的にキーを叩く音が続き、やがてディスプレイに『MAGIへの接続を確認』というダイアログが表示される。

 さらに彼は端末を操作し続ける。突如、画面に『Cain』という文字が明滅し、全く別なメニュー表示が現れた。

 彼はそのメニューからいくつかを選びだし、リターンキーを叩く。すると、部屋の中央を 占領する巨大なカプセルの中央にすっと切れ目が入り、バシュン、と低い炸裂音が部屋の空気を揺るがした。

 ゆっくりとカプセルのドアが横にスライドして大きく開く。そこには、エントリープラグのような操縦席ではなく、横たわった身体を支えられるようなマットが貼られていた。

 金属の軋むかすかな音とともに、壁の一部がぱくりと口をあける。シンジは身につけていたもの――履いていたスニーカーにいたるまで――を無造作に脱ぎ捨て、壁の開口部に放り込んだ。

 その仕種はシンジらしいというよりも、むしろかつてのレイを思わせた。

 ゆっくりと彼はカプセルに歩み寄り、中に入り込んだ。シンジがマットに身を横たえると、カプセルのドアが静かに閉じる。

『注水』





 ――ごぼっ。





 シンジの横たわったカプセルに、紅い水――彼があれほど嫌ったLCLが注ぎ込まれる。

「・・・血の臭い・・・・もう取れないね・・・・きっと」

 目を閉じたまま、シンジはそう呟く。彼の身体を、紅く生ぬるいLCLがひたひたと包み込んでゆく。

 そしてシンジの意識は、灰色の渾沌に呑み込まれていった。デスク上のディスプレイには、『Care Sleep』の文字だけが静かにまたたいていた。
















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EPISODE #5

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