Written by 柏崎夢乃
高価な買い物を終えて配送を頼んでしまうと、レイはまっすぐに自宅へ戻った。ふらふらと寄り道をするような趣味は相変わらず彼女にはなかったし、配送されてくるものが待ち遠しくもあったのだ。
今、彼女はシンジと二人で暮らしている。二人で家事を分担し、勉強をし、時折シンジの弾くチェロに耳を傾ける。
それは、レイがかつて経験したことのない静かで穏やかな生活だった。
彼等がエヴァンゲリオンに搭乗していた時に支給されていた『パイロット手当』は、彼等が21歳になるまで元本に手をつけることはできない。しかし、それはまぎれもなく彼等の個人資産である。
それはNEO−NERVによって運用され、その利益が彼等の生活の糧となっていた。生活し、学費を払い、年齢相応のちょっとした贅沢が許されるほどの額が毎月彼等の口座にプールされる。
いまだにないとは言いきれないテロおよび誘拐の危険性に備えてNEO−NERVの官舎用フラットに住まわされているため、住居関連(光熱・水道および通信)費に関しては全く心配する必要がない。
それが今の御時世にどれほどありがたいことなのか、レイには今ひとつピンとこないのだが、シンジに言わせると
『出費は少なければ少ないほどいいんだよ・・・生きることに精一杯な人の方がまだ多いし、NEO−NERVだって、いつ何がどうなるか判らない。
パイロット手当は21才になるまで僕らは元本には手をつけられないから、いざという時に手許においておける現金の額なんてたかが知れてる。
でも、やっぱしあるとないじゃ違うから』
なのだそうだ。もともとあまり二人とも無駄遣いはしない方ではあるし、家計管理はレイの手には余るというのでやはりシンジがやっている。
だから、毎月の生活費からでた余剰分は、それぞれが別口座に移して管理している。ある意味、本当の個人財産と彼等が呼べるのはその口座に移された余剰分の貯蓄と、フラット内の私物だけと言えるかも知れない。
とにかく、彼女は今、生きて来た中では一番『幸福』な時間を過ごしている。たとえ、シンジが『NEO−NERVの仕事』で留守をすることが多くても、彼女の許へ必ず彼が帰って来てくれるという安心感があるだけでも違う。
自分=『綾波レイ』という一人の存在を必要としてくれる人がいる、そしてその人を自分も必要としている。
それは、彼女にとってかけがえのない存在意義。
ジャジメント・デイ以前、彼女は『代わりのいる存在』だった。自分以外の『誰か』が、同じ『綾波レイ』という名前と顔を持ち、消耗品として使い捨てられる。
ゆえに、彼女は死ぬことを恐れなかった。人工羊水の中に浮かぶ『彼女達』が、いつでも『綾波レイ』となるのだから。いつだって彼女は『ひとり』でありながら『大勢』でもあった。
誰かの『かけがえのないひとり』になることなど、あの日、少年と出会うまで考えたこともなかった。そんな考えを抱くことは、彼女の『創造主』に対する裏切り行為でもあったからだ。
けれど、彼女は『彼のかけがえのないひとり』になりたいと思ってしまった。そして、彼女は――正確には彼女ではない『彼女』が――そうなることができたのだ。
碇シンジという少年の『かけがえのないひとり』に。
「・・・碇君・・・遅い・・・今日もNEO−NERVで何かあるのかしら・・・?」
ほぼ旧NERVの呪縛から解かれたレイと異なり、シンジは積極的に(と、レイには見える)NEO−NERVに関わっている。もちろん、旧NERVのトップシークレットであったレイの存在は、NEO−NERVにおいても貴重なものであることには変わりない。
おまけに、常人とやや異なる彼女の身体は、彼女の誕生にまつわる事情を知るNEO−NERVのスタッフの手と技術を必要としていた。
彼女の健康を維持するために様々な薬が処方され、異常がないか定期的な検診によってチェックする。そのデータは何かのためにフィードバックされているようだったが、もとよりレイがそのようなことに関心を持つはずもない。
彼女にとっての日常は、学校と自宅、月に一度検査を受けるNEO−NERVの医療棟、そしてシンジと一緒に、あるいはひとりで時折出かける街から成り立っている。
体力を著しく消耗させる徹夜の実験も、つらく厳しい戦闘も、もう彼女の日常には存在しない。
ジャジメント・デイ直後に彼女を蝕んだ身体機能の麻痺はほぼ回復したが、欠落してしまった記憶は相変わらず戻らない。
それでも、彼女は幸せだった。シンジの手によって守られ、笑い、怒り、そして涙を覚えた。愛すること、愛されることを教えてくれたのもシンジだった。
おぼろげに残るジャジメント・デイ以前の自分の生活ぶり――荒廃した部屋、ベッドの上で、ぽつんとひとりでひざを抱えて月を見上げている自分――を思うとき、レイは寒気を覚えてしまう。
人のぬくもりに満ちた快適な部屋、自分が待つ人、自分を待っている人がいること。シンジがいてくれるだけで、彼女の心は満たされる。
けれど、レイはその気持ちをうまくシンジに伝えられない。いつもそのもどかしさが彼女をいらだたせる。
『好き』――何か、違う。
『愛してる』――これも、何か違う。
この気持ちをどう伝えればいいのだろう?
だから、あの絵に惹かれた。彼女の数少ない記憶に今も残る、初めて彼女の『心』に彼が触れた瞬間を思わせる、蒼い月の絵を。
『 ・・・I Need You ・・・』
ワタシニハアナタガ必要――それだけは確かなこと。
第三新東京市、某所。
・・・Kipipipipipipipipipipi・・・・・・
室内にアラーム音が響く。ディスプレイにまたたいていた『Care Sleep』の文字は消え、今は一般ネットワークメニューが表示されている。
――バシュン!!
カプセルのドアが開き、大きく横にスライドする。
「・・・ん・・・」
意識を昏睡状態から強引に覚醒状態へ引きずりだされたシンジは、ふらふらと緩慢な動きで起き上がり、カプセルから這い出した。まだしかとは定まらない彼の足許に、LCLの小さな池ができた。
ディスプレイと端末の乗ったデスクの隅に、シンジがカプセルに入る前に脱ぎ捨てた洋服が、きちんとクリーニングされて置かれている。
床には彼のスニーカー、デスクの反対側の隅には彼専用の携帯とポケットに入れたままになっていたちいさなプレゼントボックスが二つ。
ここに立ち入るには、NEO−NERVの最上級コードが必要だ。まずNEO−NERVの幹部会議でここへの立ち入りを認めるかどうか厳重に審議され、その上で、掌紋と虹彩のデータを事前にMAGIへ登録しておかなくてはならない。
ここに入ることができるのは、NEO−NERVの内部でも本当にごく一部の人間に限られる。その全員の顔をシンジはよく知っているし、彼等全てを深く信頼してもいた。
一種の交換条件で結ばれている信頼関係とは言え、シンジの信頼を裏切ればただでは済まないことも彼等全員がよく熟知しているからだ。
だから、シンジが一種の前後不覚状態で眠っているこの部屋に入られても、彼は何の不快感も覚えない。それに、どうせこの部屋は厳重な監視体制に置かれているのだ。死角を作らぬよう、びっしりと監視カメラと各種センサーが配置されている。
壁の向こう側に隠されてはいるが、その数は尋常なものではない。
しかも、その監視カメラやセンサーは、一台一台が全く別系統の配線によってMAGIに連結され、その内部ではじめて情報が統合されるという仕組みになっている。万が一その中の一台でも配線が切れる、あるいはその他何か少しでも異変が起これば、即座にMAGIから第一種特別警報が発令されるのだ。
侵入者を確実に捕らえるため(どちらかといえば生きて返さないため)、第一種特別警報が発令された瞬間に大量の即乾性特殊ベークライトがこの部屋全体に流し込まれ、即、密閉状態になるようになっている。
この部屋に無断で入り込むのは、ほぼ間違いなくNEO−NERVの敵。そして、シンジの生命を狙うもの。
NEO−NERVの切り札でもある彼を守るためなら、その侵入者の持つであろう多少の情報など切り捨てる。NEO−NERVには、シンジのわずかな休息の時間を守ってやることぐらいしかできない――この部屋のプロテクトを破るためには、MAGIそのものを攻略しなければならないほどの管理体制をしいているのはそのためだ。
もちろん、シンジが眠っている間は彼に直接的危害を加えることなど出来はしない。カプセルは無垢のチタンから削り出されているうえに、機械的・電磁的の両面から強力なロックが幾重にも施されるため、めったなことでは開けるどころか傷つけることすら不可能に近いのだ。
カプセルに接続されている様々なチューブはやはりどれも特殊な素材で作られており、NEO−NERVだけが保有している機材でなければ切断も加工も不可能――要するに、シンジはこのカプセルの中にいる限り、母の胎内にいるように安全な状態を保証されている。
侵入者が発見され、この部屋が特殊ベークライト漬けにされてしまったとしても、カプセルの中は何の問題もない。
全てが最初から、侵入者対策を計算に入れてデザインされていた。つまり、それほどまでに彼等の敵はNEO−NERVとシンジ=カインに対する執拗な攻撃を加えていたわけだ。
NEO−NERV内部にこの部屋が作られなかった理由も、これでうなずけよう――部外者が比較的侵入し易いNEO−NERV本部よりも、ここのほうがはるかに安全だからだ。
シンジは身体中からLCLをぼたぼたと滴らせながら部屋の片隅のドアをくぐり、シャワールームに入った。彼の歩いた後に、LCLの水たまりが点々と残る。
・・・ざあああああ・・・・・・
降り注ぐシャワーの湯に洗い流されたうす紅いLCLが、シンジの足許にわだかまる。
暖かな湯の感触が、現実から遊離していたシンジの意識を、少しずつこちら側へ手繰り寄せる。
やがて、朦朧としていた意識がはっきりと覚醒する。シンジは、深い深いため息をついた・・・。